鬱のこと⑦回復したと勘違いしてしまう。

鬱病と診断されてから、3年経ちまだ薬は続けていましたが、寝込むことはなくなり、自殺騒動のあと、一人になるのが怖いと、24時間ずっと一緒にいたけれど、その不安も少しずつ薄れて、一人でも仕事が出来るくらいにまで回復してきました。

ちょうど息子が幼稚園に入り、私も自由な時間が増え、元夫とは別行動で出掛けることも増えていきました。その時は、もうこのまま回復していくんだろうなっと軽く考えていたのです。

でもそれが、良くなかったと今は後悔しています。

この時の元夫は、水を得た魚のように活動的で、朝のうちに一日の仕事を終わらせ、昼からは同業の知り合いと新しい事業の話を進めていると言っていました。

元夫の親族は自分で商売をしている方が多く、いろんな仕事の情報があり、一つの仕事で稼げなくなっても、次から次へと新しい仕事の情報が入ってくる感じでしたので、いちいち内容を聞くこともなく、気にしていませんでした。

昔だったら、どんなにおいしい話が来ても、危ない橋は渡っていなかったと思いますが、この時の元夫は違ったようで、いろいろ手を出しては、失敗もしていたようです。

そのことを私が知るのは、さらに1年後に起きた事故の後でした。

鬱のこと⑥一番怖かったこと

洗濯物を干していると、キッチンから物音が聞こえてきました。なんとなく様子がおかしく、嫌な予感がしてがして見ると、元夫が包丁を持って立っていました。

近づくと今にも手首を切りそうな雰囲気で、びっくりしたけれど、なぜか大事にしてはいけない気がして、冷静に「これは私の包丁だよ、手首を切ったら包丁がダメになるからやめて」と話しかけていました。

元夫は、はっ!っと正気に戻ったようで、なんで自分がキッチンにいるのかも分かっていない様子でした。自分の意志ではなく、寝ぼけているような感じでキッチンまで来て、包丁を持って手首を切ろうとしていたのです。

初期のころは「こんなに苦しいのなら死にたい」と口にしていたのですが、そんなことは言わなくなって、少し落ち着いていた時の出来事だったので、余計にびっくりしてショックでした。

元夫もすごくショック受けて、そんな自分を怖がっていました。

私は一度死のうとしたことがあるので、少しわかるのですが、自分の意思をもって死ぬのは本当に怖いです。親や息子のことやいろいろなことが浮かぶし、死ぬこと自体もとても怖いです。

自殺してしまった人は本当に追い詰められていて苦しんだ末、そうすることしか選べなかったから自分の意思で逝ってしまったの?

もしかしたら悩んで病んでしまっていた末の事とは思うけど、逝ったときは、元夫のように無意識だったのではないかな?とも思ってしまいます。

私も死ぬことが最善の解決策だと思っていた時は、鬱病とまではいかなくても、かなり追い詰められていた時でした。あの時に一瞬でも無意識に死んでしまっていたらと思うと、本当に怖いです。

今ある、ささやかな幸せも生きていたからあるもので、死を選んでいたら、なかったものです。死は何も解決しないし、ただ自分がなくなるだけと今は思っています。

手を放して、見守る

昨晩、息子が自転車で家から20㎞離れてる湖に行ってみたいと言い出しました。

その湖には交通量が多いわりに道路の整備が追い付いていない国道を通って、熊出没注意の山道も通って、県をまたぐ必要がある場所で、整備もされていない、なんだったら漕ぐたびにギシギシなっちゃうような自転車で行くにはちょっと無理があるような場所。

やりたいこと、挑戦する気持ちは大切だと思いつつも、「行っておいで」とはなかなかなれず、渋ってみたけれど。。。

かなり説得されて、中継地を決めて無理そうなら引き返すこと、「もし何かあったらお父さんが迎えに来てくれる」って約束してるとのことで、渋々オッケーしました。

決めたこと、やりたいことは絶対譲らないAB型。

結果、何にもなく無事到着して、嬉しそうに写真を送ってきました。

こうやって、成功体験を積んで大人になっていくんだなとは思うけど、私の小さな心はさらに小さくなる思いです。

多分息子は知らないと思うんだけれど、毎日学校に出かけるだけでも、母は最悪なことを想定して心配になりながら送り出している。「おかえり」と涼しい顔して言っていても、心の中は無事帰ってきてくれたことに安堵してるんだよ。

毎回無事に帰ってきてくれているから、少しずつ慣れてきてはいるものの、やっぱり頭のどこかでは不安だし、同年代の子の事故のニュースを観ると心がえぐられる。

「手を放して見守る」は子育てで、一番辛くて疲れる。

鬱のこと⑤普段の様子(中期)

元夫には、一般的に鬱病患者に処方される薬があわなかったのもあり、そのせいで一気に鬱状態が加速して寝込んでしまいました。。寝込むことで自信をなくして余計に落ち込んだりもしていたので、初期診断は本当に慎重にするべきだと思います。

初めに飲んでいた薬を少しづつ減らして辞めて、新しい薬に慣れるまでに3カ月ほどかかりました。

この時には、お昼前には起きれるようになってきました。

起きてすぐ30分程度のウォーキングをして、家族で近くの喫茶店に行き日替わりランチを食べる。このルーティンが出来た日はとても体調が良い日です。

そんな日が少しづつ増えていき、お取引先の方の助けていただきながら、仕事も再開していけました。

まだ電車に乗ったり、長距離の運転は出来なくて、遠出はせずに近場で出来ることをして過ごしていました。

焦らず少しづつ本人のペースで進んでいくことが大切だと思います。

こちらの本は、うつ病患者の旦那様と常に一緒にいる妻の目線で書かれている漫画なので、とても参考になりました。

鬱のこと④普段の様子(初期)

鬱になるとものすごく朝が苦手なようでした。

私も3時間おきの授乳が必要だった時で、朝起きて夜は寝るという生活は出来ておらず、朝5時くらいの授乳で起きたときに、ポトフやお味噌汁とおにぎりをいくつか作って、お互い食べれるときに食べられるようにしていました。

セロトニンを摂取出来るらしいという情報から、バナナや納豆も常に用意していました。

元夫が起きてくるのは早くて昼過ぎ、遅いときは18時とか一日起きてこないことも。

起きて気分が良いときは、30分ほどのウォーキングに出たり、息子と戯れたりそれなりに楽しく過ごしているように見えました。

もちろん何もできない日もあり落ち込んだりもしていましたが、私は鬱とはそういうものだと、早々に諦めていたので、ただただ見守っていました。

息子の授乳や排便の回数を記録していたスケジュールメモに、元夫の行動記録も一緒に書いて医師に診てもらっていました。

様子もちょこっと書いていたので、普段の様子が分かってもらえて良かったです。

医師からは、こんなに鬱病患者に引きずられない奥さんも珍しいとも言われました。

寝たきりの元夫の横にもっと寝たきりで手のかかる息子が居たのであまり気ならなかったのだと思います。常に寝不足だったのも良かったのかも知れません。

この頃はテレビの音や音楽が流れているのも嫌がったので、元夫は耳栓をして過ごしていました。

離婚後のこと⑤働き方

離婚前から食品加工のパートは9時~17時で勤務しておりました。

離婚後も越境登校で送迎の必要があったので、平日は朝8時に息子を元夫のマンションまで送り、9時~17時まで仕事をして夕方17時半ごろお迎え、土日祝だけ少し勤務時間を延ばして8時~19時くらいまで働くことが多かったです。

半年後からは実家の学区になり、平日休日関係なく朝6時~19時くらいまで働ていたので、息子との時間はあまり作れず、実家に任せっぱなしでした。

食品加工の職場は年配の方も多く働いておられたので、自分も死ぬまで働ける職場だと思っていたのですが、職場環境が良くなく、特に人間関係は本当に合いませんでした。

そのように感じ始めていた時に、知り合いが、興味があった販売の求人を教えてくれました。結婚前も販売の仕事をしていましたが、今の自分で本当に務まるのか不安で、保険をかけて週4日から始めてみました。

食品加工のパートを6時~15時に減らし、16時半~22時までショップスタッフとして働くようになりました。

しかし、コロナがきっかけで、食品加工のパート先は業績悪化が著しく、作業の取り合いが起こり、人間関係は最悪なものになりました。

特に元々誰とも仲良くしていなっかたのと、他にも仕事があるという理由で、私への当たりが強く、業務以外のストレスを抱えていました。半年ほど続けていましたが、作業がなくなると早上がり等もあり、勤務時間にばらつきが出てきたりと、お給料が安定しなくなってきました。

ちょうどその時に販売のパート先から、フルタイム勤務へのお誘いをいただきました。。新しい職場は時短で働いていた時から、仕事内容も人間関係もとても良かったので、お誘いいただけたのがとてもうれしかったです。

販売のパートは、フルタイム勤務になると、担当の部署をを持つことになり、責任もありましたが、働き甲斐があり福利厚生もしっかりしているので、安心して続けられています。

現在は、だいぶレベルが上がり、週37.5時間勤務で前のパート先の週50時間ほど働いていたころのお給料と変わらないくらいになりました。

転職して本当に良かったです。

離婚後のこと④申請や手続き

離婚届けを出したその足で、保健所に行き必要な手続きを聞きました。スムーズに手続きが出来る順番が書かれた資料があり、丁寧に教えていただけました。

戸籍移動は離婚届にあったような気もするのですが、住所変更、国保の加入や児童扶養手当、ひとり親家庭医療助成制度の申請など,やる事はいっぱいで半日かけて全部まわりました。

私は元夫の戸籍から抜けて、新しく世帯を作って出たのですが、息子の戸籍は元夫のところのままでした。息子の戸籍を移すには別の手続きがいるとのことでした。そのことに気付いたのが、離婚して2年経ってからでした。いまだに息子は元夫の戸籍のままで、扶養だけ私がしている状態です。

児童扶養手当は実家暮らしだったので、初めの半年でだけで打ち切りになりました。

離婚後のこと③実家へ

離婚後すぐは実家に移りました。私の部屋は物置として使っていた納戸を使わせてもらい、息子は無駄に広い両親の寝室の一部を間借りする形となりました。

3畳ほどでしたが、下に空間があるタイプのベッドを置いて、下に学用品を収納したり、LEGOや本を置いてちょっとした秘密基地のような感じになっていました。

ロフトベッド←こちらから

こんな感じのベッドです。階段下に物が置けたりちょっとした鞄や上着を掛けれたり自分で管理できる環境を作ってあげれたのが良かったです。

間借りということでしたが両親は、寝るときにしか来ないので、ソファもテレビも独り占めできる快適な空間になっていました。

私の部屋はもともと納戸だったのですが、要らないものは整理させてもらい、普通の部屋のように使えていました。

取り合えず、滞納していた家賃の返済が終わり自立できる資金が溜まるまでという期限付きで、実家暮らしが始まりました。

46歳になりました

離婚したときがちょうど40歳になってすぐでした。

自分の誕生日も忘れてしまうくらい忙しくてそれどころじゃなかったあの時と比べて、のんびり楽しくすご過ごせていることに感謝です。

たまたま仕事が休みだったので、母がランチでお祝いしてくれました。

テスト期間中でお昼までだった息子も合流。高校生になってからは部活が忙しくなかなか一緒にお出かけできなかったので楽しかったです。

せっかくなのでお買い物も。。。

ほぼ制服と部活のウェアーで過ごす息子の服は、長く着られるように流行り廃りのないシンプルで丈夫なものを選んでいます。

Bshopで選ぶことが多いです。

今回はDANTONのスエットTシャツ

袖と裾が絞ってあってスウェットの形だけれど、生地は太番手のくらいなので着まわしやすいロンTです。

私のはずっと欲しかったブルゾン

今まではお友達5人それぞれ別で誕生日プレゼントを用意していたのですが、今年から5人一緒にして、ちょっと贅沢なものをプレゼントしようということで、私はブルゾンを選びました。すごく軽くて着易い上に、シルエットが最高に可愛いです。

着心地がノンストレスなところが一番のお気に入り。

一足早く、両親と弟からプレゼントしてもらった財布もとても気に入ってます。たくさんの色の中から、ダークグリーンを選びました。

荷物は必ず持ってくれる息子♡

息子がいるからどんなことも乗り越えて頑張れています。今のささやかな幸せがあるのも息子のおかげ。

本当に感謝です。

離婚後のこと②息子への気持ち

夫婦関係は解消したけれど、息子にとっての二人の関係が変わることはなかったです。

息子が元夫と会うことを制限しなかったのは、その権利が私にはないと思っていたからです。

私は離婚のことを息子に早い段階から話していました、その時に別々に住む以外には何も変わらないと伝えてきました。元夫のことも息子の父親として尊重すると決めていたからです。

息子にとって今後も頼れる人は多いほうが良いと思うし、もし将来上手くいかないことがあったときに、両親が離婚していたからと責任転嫁してほしくなかったからです。

「人のせいにしない」ということは息子によく言うことで、誰かに責任を押し付けても問題が解決することはなくて、その時は人のせいにして逃げきれても、結局また同じ問題が起こると困ることになる、それなら自分がどうすればその問題を防げたのかを考えて反省した方が、同じ問題が起きても最小に防げたり、すぐに対処出来たりするよ。と伝えてます。

この離婚が、息子の人生に何の影響もないとは言えませんが、世間的にはどうあれ、本人には全く関係ないと思っていて欲しかったのです。

ただ、転校しなくてはいけないことに息子はとても悲しんでいました。

この時、息子は4年生で通っていた学校のお友達や先生がとても大好きでした、なんとか通わせてあげられないか、先生と相談して5年生までならと、特例で越境通学させてもらえるようになりました。学区内までは保護者が付き添うという条件付きでした。

その事を知り、元夫は引っ越し先を学区内にしてくれ、朝は元夫のマンションまで私が送りそこから登校し、放課後はマンションにカバンを置いて友達と遊べるようにと、息子の希望を叶えてくれました。

数カ月だけれど、息子にとって心の準備が出来て良かったと思っています。

5年生から通いだした学校では、同じ町内で実家に行たび遊んでいた子と同じクラスになれたおかげで、お友達がたくさん出来て楽しく通えていました。

高校生になり、みんな別の学校になったけれど、今でもたまに集まって遊んでいるようです。離婚してなかったら出会えてなかったと息子は言っていました。

嫌なことや、悲しいことが、あってもその先が楽しければ、それさえも良かったことになるということを学ぶ機会になって良かったと思っています。

結果論ですが。